10月22日 歌とか声とか芸能とか...
10月22日、昨日、スタジオに入って2時間くらい練習していたわけです。
1時間くらいはアンザッツを基盤としてあらゆる喉遊びをしました。そのあとは、ライブの練習と、自分が好きなアーティストの曲を片っ端から歌ってみたわけです。最近ガッツリ歌うことがなかったので久しぶりでした。
感想。
「おお~歌いやすくなったな~。今まで出なかった高音が出るようになったな~。動きもスムーズになったな~。」
まずはそんな物理的な感想が浮かんだわけです。
そして5曲6曲と歌い続けていくうちに、なんだか、
「・・・で ? ? ?」
という感情がこみあげてきました。
なんだか、虚しさというか、焦燥感というか、とにかく何かが「ズレている」という、奥底からこみあげる感覚におそわれたのです。
好きな歌がたくさん歌えて、しかものびやかに歌えるようになった自分の喉頭ちゃんに感動して、とても楽しかったのですが、
「・・・で ? ? ? だからなに ? ? ? 」
と帰り道に感じたのです。
自分が、そのへんの、上っ面をかすめていくだけの(梵声先生のお言葉をお借りしますと偏った”美学的”、”カス”の)「歌い手、トレーナー」だと認識したことに気づいたのです。
人の曲を歌ったからではありません。
「声」って、
「歌」って
元来、こういうものじゃないんだろうな、と感じたと言いましょうか。
“ボイス”を“トレーニングする”というのは、こういうことじゃないんだなと深く体感しました。
わたしがボイストレーニングを始めたきっかけはおそらく大半の方と同じで、「歌がうまくなりたい、高音がでるようになりたい」そんな一般的な理由でしたが、いざそれに対する変化を自分の中に感じてみたら、結果そこには何もなかったわけです。
もちろん、声や歌いやすさに着目してボイストレーニングをすることは何も悪いことではないと思います。高い声がでたらいいなって思うことも悪いことじゃないです。
ただ、わたしは自分がまだまだ、歌いやすさだとか高い音だとか、そんな喉頭(声)のちっさな一部に注目してしまうヤカラだったのかと、絶望したわけです。
梵声先生のブログを拝見したり、著書を拝読したり、レッスンを受けさせていただいていて、「ボイスカルチャー」という感覚や、「芸能」に対する感覚を自分の中に育ててきてはいるつもりでしたが、まったくもって育っていなかったわけです。
いや、育っているのかもしれない。だからこんな感情になったのかもしれません。
いわゆる“パラダイム”をわたし自身全く抜け出せていなかったのですね。
「声」や「歌うこと」というのは元来、もっと情動に支えられた心の根底の“なにか”に寄るところの自然発生的ものなのではないかと思うのです。表現とかそんな単純なことではなく。
(“言葉に言い表せない感覚”、というのが正しい描写かもしれません)
正直、頭の整理がついていません。書いている本人がわからないのだから、読んでくださっている方はさらにちんぷんかんぷんかもしれませんね。
でもこの感覚を書き留めておかずにはいられませんでした。
“ボイス”を“トレーニング”することすらもう間違っているのではないかと感じるわけです。
ただ、フースラーの言う「原始本然」を取り戻す、抑圧された喉頭を解放する、という意味でならいわゆる「ボイストレーニング」は存在していいと思うのです。
その解放していく過程で、自分はまだまだただの現代人だったのだ、フースラーの描いていた本質をとらえたボイストレーニングをしていたわけではなかったのだ、と感じた次第です。(そもそも今のわたしが本質をとらえていたとしたらそれはただの勘違い調子のりエゴです)
とはいえ、自分の中で確信にかわってきているこの「パラダイムシフト」がうれしいのです。
昨日10月22日はわたしの誕生日でした。
この世に誕生できたことを感謝する日にこのような感情になれて、とてもよい日になりました。
こんな、とんちんかんちんな、ちんぷんかんぷんなわたしですが、
どうぞよろしくお願い致します。
(ちなみに、イチロー選手も10月22日生まれ☆彡
これこそ、、、「・・・で ? ? ?」だね笑)